子供時代を振り返って
私は、小さな頃からご飯やおもちゃを買ってもらえるということには「対価」があるのだと思っていました。
自分以外の人間、つまり私に、毎日ご飯をくれることが理解できませんでした。いつかそのことで恐ろしい罰が下るんじゃないかと怖くてたまりませんでした。
そのため、「愛嬌」という対価を支払うことで親や周りの人たちからの愛情を“買って”いたような気がします。「可愛くて人を喜ばせるのが上手で、時にお茶目な○○ちゃん」を演じることによって、ようやく安心して輪の中にいられるようになったのです。
私は、自分のこの振る舞いが歪んでいると今は感じます。ありのままの自分を愛してもらえていなかったから、ありのままの自分を出すことが怖くなっていきました。ありのまま、そのままの自分でいたら嫌われてしまう、そう、思って。
話は飛びまして、小学校低学年の頃、両親が離婚しました。
私は母親側についていきました。
苦しむ母親と泣き続ける幼い妹を見て、私は「子供役」を演じるのをやめました。
そして今度は、「父親役」になろうと決めました。
「父親役」といっても特別何かをしたわけではありません。特別母の支えになったかは正直微妙です。
ただ、より強固に、「周りを不快にさせてはいけない」という意識は強まりました。
泣きたくても泣いてはだめ。
寂しくても泣いてはだめ。
迷惑をかけてはだめ。
……いつのまにか「父親役」というかもっと凝り固まった「優等生」になっていきました。
ちなみに離婚時すでに母には付き合っている男性がいたことが後々判明してショックでしたね。
そして小学校高学年の多感な時期に母はその男性と再婚しました。
この時に私の「父親役」としての自我がまた浮上してきました。“父親役を奪われた”と。
そうすると「父親役」としての私は用済みになります。
そして一年後、再婚相手との子供が生まれます。
私は思いました。“ああ、私の存在価値は完全になくなったな”と。
それからは愛されようと必死でした。
勉強も、運動も、部活も全てトップクラスで走り続けて、私は親、特に母親に褒められるために生きてきたようなものでした。
さて、私は母の一番になれたでしょうか?
母は、「おんな」でした。
再婚相手に嫌われないために、私を怒鳴りつけました。
再婚相手に嫌われないために、私の性格を作り変えようとしました。
母は必死だったんだと思います。再婚相手の男性が大好きだったから。
それでもどこかで母も私に依存していました。
自覚はありませんでしたが、医師にそう指摘されたことがあります。
いわゆる共依存ってやつですね。
だから一人暮らしをして母親と離れれば全て解決するよ、と当時の主治医は言いましたが、完全に依存していたみたいで、母親の存在や母親からの罵倒・怒鳴り声さえも恋しくて、結局いまだに母親への依存は解消できていない状態です。
難しいですね。